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景山公園

中国語表記:景山公園   

住所:北京市西城区景山西街44号   

公式サイト:http://www.bjjspark.com/   

最終更新日時:2018-07-13 16:29:32

北京市文化財保護地である「景山公園」は元、明、清の三代の皇室の御苑です。北京市街区の中心にある景山公園は北京の古い町における南北を走る主要道路の中心点に位置し、故宮の北側にあります。元代前は人里離れた郊外でしたが、金の大定年間、近くに太寧宮が建てられ、西華潭(現在の北海)が彫り開かれたので、ここには小さな丘ができました。

13世紀半ば、元の世祖フビライは大都を作り、ここはちょうどその中心に位置するので皇帝が月見する専用の「後苑」に定められました。苑内には長年耕作していた土地が8万平方メートルあります。かつて元代の皇帝はここで農作業をしてそれを天下に示したことがあります。それで、この小さい丘は「青山」と呼ばれるようになりました。

明の洪武元年、工部(役所の一つ)の郎中(判官)を務める肖詢は元の故宮を取り壊す工事の関係者として、後苑の景色と金殿や翠殿、華亭、氈閣などの建物を自ら見物したことがあります。その後、明の永楽年間、成祖の朱棣は大規模に城と宮殿、園林を営造していました。その時、天の四神である青龍、白虎、朱雀、玄武がそれぞれ四方をつかさどるという説に基づき、また紫禁城の北は玄武の位置にあたることも踏まえて、そこに山があるべきだとしました。そのため、紫禁城の筒子河、太液池、南海を掘り開くときにできた土を「青山」のところに積み上げられ、このように五つの峰ができて、「鎮山」と名付けられ、また「万寿山」とも呼ばれます。明代の初め頃、麓に石炭が積まれたことがありますので「煤山」という名もあります。

山の下には果樹が多く栽培され、「百果園」と称られます。皇帝が高いところに登ったり、宴会を設けたり、矢を射たり、花見をしたりするなどの娯楽活動の場所として、山の東北に壽皇殿をはじめとする宮殿や東屋、楼閣などが建てられました。昔東北側にあった官徳殿は明代の皇帝が矢を射る練習の場所です。また、山の下に多く飼われた鶴と鹿が長寿を祈る意味です。毎年の重陽節になると、皇帝は必ずここに登り周りの風景を見渡し、それで長寿になれることを祈ります。明の崇禎17年、農民反乱軍の指導者である李自成が北京城に攻め入った後、明思宗朱由検はこの「万寿山」の東の麓にある一本の槐に帯を釣って縊死しました。その後、清の軍隊が関城に入り、明の役人たちに投降を呼びかけるため、その槐を「罪のある槐」と呼び、鉄の鎖で封鎖し、清の皇族の人はここを通る時に必ず馬を降りて歩くように定めました。

南のほうに傾く当時の木はもう枯れて死んでしまいましたが、現在ご覧になるのはその後植えかれられたものです。木の隣に石碑があり、「明思宗殉国処」の文字が書いてあります。その後、清の順治12年、「万寿山」を「景山」という名に変えました。清の乾隆14年、壽皇殿は景山の真北に移されました。清朝滅亡後、景山は一時に荒れ果てていて、軍隊の駐屯地になりました。

1928年に、景山は民衆に開放されるようになりました。1949年に、全体的な改修と修築の工事が始まり、景山公園に修築されました。その後、銀杏園、カイドウ園、牡丹園、桃園、リンゴ園、ブドウ園、柿林が相次いで建てられました。公園全体は北から南を望み、赤いレンガと黄色い瓦の塀に囲まれています。公園の敷地面積は23万平方メートルで、周囲の長さは1015メートルです。山の高さは43メートルで、園内の花畑や芝生の敷地面積は1100平方メートルです。メインの建物は縁門、綺望楼、楓亭、寿皇殿建築群、興慶閣、永思殿、吉祥閣、観徳殿などあります。また、景山にある主な建築物は三基の園門、孔子を祭る綺望楼、五宇の東屋、山の後ろにある寿皇殿、東の永思殿と観徳殿及び関帝廟です。

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