天安門の西側に位置する公園。前身は明の永楽帝が1421年、「周礼」中の「右祖左社」の記述にならい、紫禁城の左(西)に造った国家安泰と五穀豊饒を祈る社稷壇。1900年に八カ国連合軍が北京を占領した際には、米提督の事務室が置かれていたこともある。
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010‐66055431 天安門の西側に位置する公園。前身は明の永楽帝が1421年、「周礼」中の「右祖左社」の記述にならい、紫禁城の左(西)に造った国家安泰と五穀豊饒を祈る社稷壇。1900年に八カ国連合軍が北京を占領した際には、米提督の事務室が置かれていたこともある。1914年に公園として改造され中央公園と名付けられたが、1925年に孫中山(孫文)の遺体が一時ここに安置されたのにちなんで中山公園と呼ばれるようになった。北京の解放初期にはここで全国人民代表大会(全人代)が開かれ、毛沢東や劉少奇、周恩来などの指導者が全人代代表に任命された。
正面はちょうど天安門広場である。南門は金水河に臨み、後方は故宮を水を隔てて向かい合っている。東は午門、端門、天安門に隣している。公園内は緑いっぱいで、音楽堂やボート乗り場もあり市民の憩いの場となっている。毎年春にはチューリップショーも開かれ多くの人が訪れる。
中山堂 社稷壇の北側の精巧な木造大殿は、15世紀初頭に建造され、もとの名を拝殿、又は祭殿といった。1925年、孫中山(孫文)氏が亡くなった後、その遺体は一時ここに安置された。1928年中山堂と改名された。
社稷壇 社稷壇...
天安門の西側に位置する公園。前身は明の永楽帝が1421年、「周礼」中の「右祖左社」の記述にならい、紫禁城の左(西)に造った国家安泰と五穀豊饒を祈る社稷壇。1900年に八カ国連合軍が北京を占領した際には、米提督の事務室が置かれていたこともある。1914年に公園として改造され中央公園と名付けられたが、1925年に孫中山(孫文)の遺体が一時ここに安置されたのにちなんで中山公園と呼ばれるようになった。北京の解放初期にはここで全国人民代表大会(全人代)が開かれ、毛沢東や劉少奇、周恩来などの指導者が全人代代表に任命された。
正面はちょうど天安門広場である。南門は金水河に臨み、後方は故宮を水を隔てて向かい合っている。東は午門、端門、天安門に隣している。公園内は緑いっぱいで、音楽堂やボート乗り場もあり市民の憩いの場となっている。毎年春にはチューリップショーも開かれ多くの人が訪れる。
中山堂 社稷壇の北側の精巧な木造大殿は、15世紀初頭に建造され、もとの名を拝殿、又は祭殿といった。1925年、孫中山(孫文)氏が亡くなった後、その遺体は一時ここに安置された。1928年中山堂と改名された。
社稷壇 社稷壇は昔皇帝が土地の神と五穀の神を祭った場所であった。「社」とは土地という意味である。「稷」とは高粱のことで、穀物の代表である。壇は四角形で、大地を象徴している。壇上十干十二支と八卦の方位に基づき、青、紅、白、黒の五色の天然の土が敷いてある。
後に唐花塢、蘭亭碑亭、長廊水、四宜軒、習礼亭、音楽堂、保衛和平坊、長青園、金魚廊、古柏成林、花木扶疏が建設された。園の北の筒子河は、冬はスケート場となり、その他の季節にはボートを楽しむことができる。 園内には他にも音楽茶座、児童駕騎場、運動場、ゲームセンターなどがある。